Yです。こちらで、今まで何度か小さな時に母のシミーズ(今回はあえてスリップと言わずシミーズで通します)を着た話をしました。実は、今思ってもその時になぜ着て見ようと思ったかはよくわからないのです。中学生くらいになって着てみたときは明らかに性的欲求からくる衝動があっての行為だというのがわかります。でも幼稚園児くらいの頃の行動にはそういった性的欲求ではなかったわけです。その時の事で覚えているのは、真っ白ですべすべしていて、ドレッシーで自分が普段着せられているものとは明らかに違うという事でした。それまでも母のシミーズ(今回は姿はみていたはずなのに、なぜその時に初めてそれを意識したかはわかりません。でも、そこにあったシミーズそのものが何か魅力的な物に思えたわけです。その時にもう一つ思ったことは、「なんで女の人はこんなに素敵なものを着られるのかな?」ということでした。着てみるという行為はその時だけでしたが、それ以来母が見ていた女性向けの雑誌なんかに女性のシミ
ーズ姿の写真を見つけると、それをみるのがとても楽しみでした。後におとづれる性的衝動とは違い、シミーズの美しさに魅了されていたという感じです。
小学校に入ると、半数が女の子です。スカートからチラチラと白いシミーズが見える事が度々ありました。それが見えるとドキドキしたのと、恥ずかしい気持ちと(なぜかわかりませんが、私が恥ずかしいと思う気持ちが少しありました)、得したような気持ちが混じっていました。でもそれ以上に、思ったのは「女の子は母と同じように白いシミーズを着ているんだ」ということと「女の子はシ
ミーズをいつも着ていられていいなあ。きっと寝る時もシミーズを着て寝るんだろうなあ。なんで自分はそうじゃないんだろう」ということでした。もちろん、今までそんな気持ちを口にしたこともありませんし、自分でもその気持ちが整理出来てはいませんでした。
それからは、少し違う意識が芽生え、他所の家で洗濯物でシミーズが干してあったりするのを見るのが嬉しかったりドキドキするようになったりするようになってきました。
小学校3年生だったか4年生だったか、母がブルーのシミーズ姿でミシンをかけている姿を
見た記憶は鮮明に覚えていますし、それがまた私の意識の中に大きな影響を与えた光景でした。それまで白いシミーズしか見た事がなかったんですが、こんな色のついたシミーズがあるんだという意識が芽生えました。
母は洋裁をしていて頼まれて人の服を作っていました。時々女の子の洋服を頼まれると、出来上がりを確認するために、私に着せて出来栄えをみていました。私は口では嫌だ嫌だといいながら、内心は嬉しかった記憶があります。でもその時に、どうせなら下着でシミーズも着せてもらえないかなと思っていました。
中学に入ると同じクラスの女の子のあることに気がつきました。みんながそうであったわけではありませんでしたが、ある子のことです。体育の時に、上は白い体操着で下はブルマーでした(当時はブルマーでした)。その子の体操着の下、丁度胸から肩の辺りにかけて、レースが浮き出ていました。子供でしたからラウンド型のシミーズだったのでしょうけど、胸から肩にかけてレースがあしらってあったのだと思います。
そして、少し動いた後に、上着とブルマーの間からシミーズの裾がはみ出していました。すぐに周りの子が気がついて直してあげたましたが、なんともいえずそれを見てかわいいと思ってしまいました。
中学2年の時、運動系のクラブにいました。一つ上の女の先輩がいました。怖くはなかったですが、私に対しては先輩口調で(当たり前ですが)色々命じたりしていました。ある日の練習の終わり頃、暑かったのもあり、みんな体操着の胸をあたりを開けていました。その先輩が私の近くに来た時、その開けた胸元からラウンド型のシミーズのレースが見えていました。このキツめの口調で色々指示する先輩のそれを見た時、なんとも微笑ましいというか親密感みたいものを感じました。当時でも、気の利いた女の子は運動の際に下のシミーズを脱いで体操服だけになって
いたはずですが、この光景になんともいえない気持ちになりました。
丁度この頃から、女の子のセーラー服からチラチラ見えるシミーズの生地が気になるようになってきました。子供の頃の意識と変わり、シミーズに性的衝動にような意識を持ってみるように変わってきました。
そして、中学2年の夏、小学校3年生の時に私の意識の中に埋め込まれた母のブルーのシミーズを洗濯機の中に見つけ、衝動的にそれを着てみるという瞬間が訪れました。幼稚園の時に衝動的に白いシミーズを着てみた時以来でしたが、この時に着てみた事がその後の私のフェチ始まりということになります。
もうこの時以来、自分の頭の中には女性のシミーズ、そしてスリップへと進んでいきます。その後は、女性のスリップ姿に憧れながら、いつか目の前で素敵な女性のスリップ姿をみること、それに触れることなどが加速していったわけです。自分としては、実際にスリップを着た女性と触れること、交わることができたら自分が身につけたいという気持ちはきっとなくなるのであろうと思っていました。しかし、大学時代に隣に住んでいた奥さんのいたずら
心で私にスリップを着せたこと、そして風俗でホテルで交わった女性が私に着せたことなどが、私の心の中の部分を再び燃え上がらせてしまいました。スリップを着た女性と交わるだけでは我慢ができずに、自分も一緒に着る喜びを知るようになってしまいました。幸いYというパートナーを得て、自分のその部分の満足感を得られているのは幸せな事ですね。Cが自分のために新しいスリップを着てくれる、それと私に似合うと思って、新しいのを買ってきてくれた瞬間、そして、それを身につけた時の嬉しさは女性の感覚になっているんだと思います。皆さんはどうなのでしょうか?個々にこられている方々はスリップが好きな方々ですし、中には私と同じように身につけるのが好きな人もいれば、女性の着た姿が好きな人もおられるでしょう。この魅力のスリップがなんとか無くならないでいてほしいと願うばかりです。
返信ありがとうございます。
その時の事を話します。
その日pm8:00頃、私がオヤツを食べていると、母が風呂から出てきました。
母がは手にスリップを持っていて、
何事も無かったかの様に彼女をゴミ箱に入れたのです。
私は素知らぬ顔をしながらも、胸が高鳴りました。
当時、私は受験勉強中で風呂に入るのも寝るのも最後でしたが、その後は全く勉強が身につきませんでした。
そして両親が寝に行ったあと、ゴミ箱から彼女を救助するとお風呂に入りました。
そして生ゴミにまみれカラダに醤油の付いた彼女を洗ってやりました。
彼女のカラダから汚れを洗い流すと、もう一度石鹸を付け自分も体を洗い、石鹸まみれのカラダに石鹸まみれの彼女を着て一緒に石鹸を洗い流し、そのままバスタオルでカラダを拭き自分の体温で彼女を乾かしました。
後で彼女をよく見ると、思った以上に彼女のカラダは傷ついていました。
肌は毛玉が出来ていて、レースは擦り切れていてボロボロと言って良い状態でした。
そう言えば、10年前に棄てられたスリップも肩紐が切れていて、カラダがボロボロだったのを覚えています。
これほどボロボロになるまで、母の為に尽くしてくれたスリップを平気で棄てられる母は鬼か?と思いました。
しかしそれで、母のクセがわかりました。
私は毎晩洗濯かごをチェックして、スリップがないときはゴミ箱を探すと見つかりました。
それ以降ほとんどのスリップは救出できたと思っていますが、10年位経つと母はスリップを着なくなりました。
最後に助け出したスリップは切り替えスリップでした。
母は数年前に亡くなりましたが、葬式の日、私は母のスリップを着て母を見送りました。
自分を虐待し焼き捨てようとした母が、焼かれて骨になっているのをスリップはどんな思いで見ていたのでしょうか。
私にはトラウマになっている記憶があります。
昭和30年代、3歳か4歳くらいの頃、夜に父のクルマでドライブしていました。
私は母とリアシートに乗っていたのですが、車酔いをしてしまい嘔吐して母のブラウスを汚していまいました。
母は私を叱りながらブラウスを脱ぎスリップ姿になりました。
私は酔って苦しくて涙目になりながら見たスリップの美しさが、今も目に焼き付いています。
どうして女の人はあんな美しいスリップ(当時はシミーズと呼んでいました)を着ることができるのだろう。
どうしてスリップはあんなにヌルヌルしているのだろう。
不思議でなりませんでした。
そして彼女(スリップ)は女神なんだと思い、自分を納得させました。
そしてある雨の日、飼い猫がドロドロに汚れた足で家の中に入ってきました。
母は汚れた足で歩き回られてはかなわないと思ったのでしょう。
ネコを捕まえてイヌのようにヒモで繋ぎました。
そしてネコの下にボロ布を敷いたのですが、それが母のスリップでした。
私は衝撃を受けました。
女神だと思っていたスリップは母にとってはタダの下着だったのです。
翌日、彼女は浅い木箱で作ったゴミ箱の中に入れられていました。
当時、家の前にドラム缶があり、そこでゴミを燃やしていたのです。
今なら簡単に彼女を助ける事は出来たでしょうが、当時3〜4歳の自分に何が出来ましょうか?
彼女は焼き殺されました。
その時、私は大人になったら必ず母からスリップを助け出すと誓いました。
私が母からスリップを助け出すことが出来たのは、それから10年後の中学3年生の頃でした。